HORI AKIRA JALINET

『マッドサイエンティストの手帳』155

●SF、書誌、科学、その他

連休の頃から読んだ本のことなどをまとめて
 小説が面白くないわけではないのだが、SF周辺の本がやっぱり面白いなあ。


『思考する物語』と『日本SF論争史』

 off off

 ずっと前に読んでいて、感想を述べねばと思っていたのが、森下一仁氏の『思考する物語』(東京創元新社)。副題に「SFの原理・歴史・主題」とあり、帯に堂々と「SFとは何か」。「現代SF最前線」が15年に及ぶ書評であり、これはたぶんその間(ファン時代も含めると30年以上)に醸成されたSF観の集大成ともいえる論考。SF歴はほとんどぼくと同じで……ぼくの方が数年古いが、森下さんの早熟ぶりが、精神年齢では追い越してしまっている……まあ、違和感が入り込むところがない。  ながらく「SFとは何か」に正面から定義する論考がなかったように思うが(あまり読んでないので自信はないが)、ここでは明確に定義してある。
 59ページ。
  「SFは(ミステリやリアリズム小説とはちがって)因果関係を構成する因子が
  現実から逸脱してもかまわない物語である。SF作品には必ず存在する架空の設
  定−−つまりSF的飛躍とは、そのような逸脱をいう。しかしその逸脱は場面場
  面で恣意的に使われるものであってはならず、それにもとづく統一した枠組みを
  提供しようとするものでなくてはならない。」
 見事なものだ。
  ちなみに、ぼくが某「エンターテインメントノベル」講座の「SFの書き方」で使用した定義は(これは小説作法上の定義だが)、
 1 SFが他のジャンルと区別されるのは「IF(もし……だったら)」の有無。
 2 作者はこのIFに自覚的でなければいけない。
 3 このIFを作品の構造の中核にして展開していくこと。
 4 核になるIFはふたつ以上あってはいけない。
 たぶん、ほとんどいっしょのことと思う。ぼくは場合は、見よう見まねで書いているうちに自覚してきた定義なのだが……。
 ある事情から「立ち読みがしんどかった」連載、まとまったのが本当に嬉しい。

 巽孝之編『日本SF論争史』(勁草書房)は、ぼくにとってはSF観形成期と重なるSF論争史。……巻末の牧眞司氏作成の論争史年表と巽氏の各章につけられた概要のまとめ方が見事だ。「山野−荒巻論争」とか「宇宙の戦士」論争など、現場で観戦した方だから、現時点で整理されてみると、なるほどなあと思う。が、やっぱりジャズと論争はライブがいいなあ。あの熱気。平井さんが飛び入りした「特別手記」がないのは惜しい。……などといいつつ、やっぱり(論争とはいいがたいが)小松左京氏のマニフェスト「拝啓イワン・エフレーモフ様」が群を抜いている。これで何度目になるかわからないが、やっぱり読み返すたびに初心を思い出すのである。


『雑本展覧会』と『ブックハンターの冒険』

 off off

 横田順彌『雑本展覧会』(日本経済新聞社)はヨコジュンの独擅場ともいえる、古書から拾い集めた面白エピソード集。よくネタが尽きないと思うが、まだまだ無尽蔵なのだなあ。いちばん気になるのは「月面裁判」という本の結末。……SF周辺の裁判小説というだけでまったく知らない作品を3冊も紹介しているから恐れ入る。(知っているのは「人獣裁判」だけだった……)

 牧眞司『ブックハンターの冒険』は同じく古本収集に関するものだが、SF収集からはじまって古書全体に拡大していく(このあたりもヨコジュンに似ているが)過程がすごく、作者の精神形成史と重なっていることから、自伝的小説の面白さまである。
 牧さんの最初の著書というのが意外といえば意外。活動歴の長い人だけに、これからはさらにSF書誌でも活躍してほしい。


『われ思うゆえに思考実験あり』と『太陽・ゲノム・インターネット』

 off off

 橋元淳一郎『われ思うゆえに思考実験あり』(早川書房)は、これまたある事情から「立ち読みがしんどかった」連載、まとまったのが本当に嬉しい。連載開始が、個人的にはネットで「フィクション錬磨峡」などをやっていた頃だから、ずいぶん長い連載だが、全体が見事に、しかも「今日的な」テーマで構成されているのに驚く。作者が自覚しているとおり「科学を越える知の枠組みの探求」という姿勢で貫かれているからである。

 橋元さんとダイソンを並べると橋元さんは恐縮されるかな。
 フリーマン・ダイソン『太陽・ゲノム・インターネット』(共立出版)は、「未来社会と科学技術大予測」とあって、SF的アイデアのオンパレード。マッドサイエンティスト・ダイソン博士恐るべし。ぜんぜん衰えてはりません。
 「モデルと理論」に関して、橋元さんとダイソンでは微妙にというかぜんぜんというか、思考法がちがって見える。橋元さんは哲学的であり、ダイソンは社会意識が先行している(ように緒言から読める)が、ダイソンの方が無責任に(といっては悪いか、奔流のように)アイデアを噴出させているのが面白い。
 ともにSFファンには刺激的な本である。


『作家の値うち』と『ジャズの明日へ』

 off off

 この2冊を並べたのは、別に恣意的にではない。まあ、知っているようで知らなかった世界教えられた……というところか。

 福田和也『作家の値うち』はなにかと話題になっているから、とくにコメントすることもないのだが、あまり誰もが触れたがらないのが、「測定不能」にされた船戸与一の一連の作品についてだろう。どこかに正面切った反論はないのかなあ。「どっちも」が怖いからかしらん。……気になるのが「砂のクロニクル」評。「若い頃に五木寛之の作品を読みすぎたのか。あるいは『ゴルゴ13』の影響か」……ゴルゴを「読み過ぎた」影響のようにもとれる。ゴルゴ13の原作を書きすぎたからともとれる。どっちの意味だ。おれは「ゴルゴ13」を、大宮信光氏に教えられて以来30年ほど読んでいるが、船戸原作がどれなのか、途中から「脚本」の表記がなくなったためにわからないのだ。初期の、小池一雄やK元美津の脚本によるのには秀作が多かった。船戸与一がゴルゴ脚本でも手抜きしていたとは思えない。いや、作品としては「ゴルゴ」の方が後世に残るのではないか。池上金男脚本の映画『十三人の刺客』と池宮彰一郎『四十七人の刺客』に似た関係があるのではないかと想像できるからだ。船戸原作のゴルゴ13リスト、ぜひとも検証していただきたいところだ。
 それはそうと、福田は「私が自分の職業的良心の強さを今までもっとも強く感じたのは、ここにリストアップされた船戸の作品をすべて読了した時であった」と書いた上で。8作品「すべて20点以下、測定不能」と書いている。職業的書評家が「すべて読了」するのは当然の作業ではないか。(最近では、読まずに書評を書いて原稿料を稼ぐトンデモないのがいるそうだが……)その上で「測定不能」としたのは、批評能力の欠如をセキララに告白したということではないのか。福田が感じたのは「職業的良心の強さ」ではなく、「面の皮の厚さ」でなくて何だろう。

 村井康司『ジャズの明日へ』(河出書房新社)は副題「コンテンポラリー・ジャズの歴史」とあって、ファンキー以降のジャズ史の俯瞰。さすがに村井氏は良心の塊で、この膨大なCDを聴き通したことに「自分の職業的良心の強さを今までもっとも強く感じた」などと書いてないところがえらい。当たり前か。……読んでいて、これほどCD−ROMで付録をつけてほしいと思った本はない。「カインド・オブ・ブルー」の分析やモードの解説など、この辺は手持ちのCDがあるから、少し読んでは聴き返し……だが、フュージョン以降になるともういけない。キース・ジャレットくらいしかないものなあ。
 油井正一『ジャズの歴史物語』と並べると、年代的に、ニューオリンズジャズから現代までつながることになる。
 10年たてば「名著」になる可能性があるなあ。
 70年代でとどまっていてはいかんのだなあ。ぼくの場合、SFにおいてもそうなんだけど……。


『マッドサイエンティストの手帳』メニューヘ [次回へ] [前回へ]

HomePage