HORI AKIRA JALINET
梅田地下街略図

梅田地下オデッセイ

 地下鉄梅田駅のホーム南端は、地下街の中でも最も荒廃がひどい一角だろう。階段の半分以上は毀れていて、ぐらつきやすく、一段ごとに確かめながら体重をかけないと危険だった。途中には砂礫がぶちまけられていて、バリケードを築くために線路面を毀して運ぼうとした跡のように思える。段上の改札口前が、三グループの衝突した広場なのだ。
 荒廃は上に行くほどひどく、最上段を登り切ったところで、おれはしばらく立ちすくんだ。改札口前には、想像以上に大量のがらくたが積み上げられていて、天井との間にわずかな間隙を残すだけの状態だった。
 おれが漠然と頭に描いていたコースでは、ここから阪神電車の乗り場に降り、ホーム沿いに西へ進む予定だった。〈ファンタジーの広場〉から出発して以来、はじめて予想外の障害に遭遇したことになる。
(しかし、ここまで一度も迷路に入り込まずに到着しただけでも奇跡的ではないか……)
 おれはそう思った。
 頭に浮かぶ予感のみに忠実にコースを取っただけのことだ。朝、あの地下道を通り抜けたうなりと同時に、不思議な昂揚状態が襲ってきた。あの状態がまだ持続している。そんな風におれは感じていた。
 ――そして、やはりここは行き止まりの経路だったのか。それとも、ここはシャッターの開閉によって作られる分岐点ではないから、自分で障害を取り除いて進まなければならないのだろうか――。
 ゴローが腕の中で動いた。腕の中で、青白く頭髪のない頭を左へ突き出して、しきりにもがき始めたのだった。
 作り物のように飛び出した眼が、何かを見つけたのかのように一方向を向いている。おれはそちらに歩いていった。
 バリケードが足の踏み場もなく積まれ崩れかけている、その東端の死角に、やっと一人が通れる程度の通路がある。阪急デパート入口の階段を降りた左側だ。おれは思い出した。地下鉄定期券売り場の裏側が幅一メートルほどのロッカールームになっていて、そのコーナーは梅田地下センター側へ抜けられるのだ。おれは通路を覗いた。そこにもがらくたがいっぱい積み上げられ、通れる隙間はなかった。
 が、ゴローは意外な反応を示した。壁一面のロッカーの一つを睨み、例の奇妙なうなり声をあげたのだ。おれはそのロッカーの扉に手をかけて、ためらわずに開けた。
 腰の高さあたりのロッカーの中には、何もなかった。ただ、横側に、薄い鋼板を切り取って、ほぼいっぱいに穴が開けられていた。おれは瞬間的にその意味を悟った。人間ひとり、どうにかくぐれる横穴は、壁に沿ってロッカー内部を通路の奥まで続いているにちがいない。
 それは巧妙に隠された秘密通路だったのだ。
 おれは内部を覗き、次の瞬間、頭をかすめた疑問に体がすくんだ。
 なぜだ。
 なぜこの子はこの通路を知っているのだ。
 ――あの、医大の助手なら答えてくれるかもしれない、とおれは思った。が、彼とは阪急ファイブの地下から逃げ出した時以来、別れたままだ。地下街のどこかにいるだろうとは信じていたが。
 おれたちの会話はワイン二本目の半ばで跡絶えることになった。ハンバーグコーナーの向うで足音がしたからだ。
 四、五人の硬い靴音が入り混じって遠くから響いてきた。時おり、ガラスの砕ける音や厚い冷蔵庫が乱暴に閉められる音が聞えた。数人のグループが食料か、おそらく酒を捜して近づいている気配だった。
 おれたちは黙って顔を見合わせた。この一角まで侵入してくる者があるとすれば、曾根崎方向から流れてくる凶暴なグループと考えてよかった。
(逃げた方がいい)
 おれは息を殺して、目で合図した。助手の男は黙ってうなずいた。手が自然にのび、おれはハムの塊りを把み、彼は残った一本のワインを取った。コーナー入口の扉は濃いグリーンのガラスだ。扉の裏に隠れてもシルエットが見えるだろう。かれらがこの店に着く前に通路に出て、手前の店に入った隙を見て、その前を逃げるしかない。この奥は行き止まりだし、逃げ道は〈花の広場〉へ通じる通路だけだ。
 靴音は確実に四人と聞き分けられた。靴音は二軒向うの喫茶店を物色しはじめたようだった。
(今だ)
 おれは目で合図し、通路に忍び足で出た。喫茶店前まで六メートルほどある。そこを通過しないことには逃げ道は開かれない。後ろを助手の青年がついてくる気配だけがあった。
 あと一メートルで赤い樹脂性の扉の前を通過する。そしたら走り出せばよい。
 不意に音もなく扉が開いた。三十センチ前に男の顔があった。正面から視線が合った。細くつり上がった目の狐を連想させる顔だった。ちらっとおれはその男の手を見た。右手に刺身庖丁が握られているのだ。
 その手が動いた。
 何のためらいもなく男の庖丁を握った腕はおれに向って一直線に動いた。
 腹のあたりに鈍い衝撃があった。
 一瞬、何が起こったのか自分でもわからなかった。両手で固く握っていたボンレスハムのまだ二十センチはある円筒に、男の突き出した刺身庖丁が根本まで突き入れられていた。手元の肉塊に力がかかった。男が庖丁を抜こうとしている。おれはやっと動いた。右膝で男の胯間を渾身の力を込めて蹴り上げた。膝に意外に柔らかい感触だけがあり、男はうめいて倒れた。
(逃げろ)
 おれはふり向いて合図した。喫茶店の内部で男の声と慌しい靴音が響いた。おれたちは駆け出した。背後で何か叫び声がした。「酒があるぞ」と聞えたようにも思えた。
 〈花の広場〉に出て、おれは右に曲り、プチ・シャンゼリゼの方向へ走った。二十メートルで防火シャッターが正面にあり、左右が開いていた。右に走り込む。商店街内部の連絡口や従業員通路や通りへの出口が細い迷路を作っている。迷路がこれほど安全に見えたことはなかった。分岐を五箇所、左右右左左と選んで抜けた。
 2の5乗=32 と暗算し、ここがすぐに見つかる確率は三十二分の一と考えて、やっと息をついた。その計算法を教えてくれた青年は、背後にはもういなかった。
 おれはまだ両手で握ったままの円筒を見た。指が食い込んでいた。ハムの断面から庖丁の柄が突き出ているのを見て、やっと震えがきた。柄には店の名の焼印があった。男はどうやら泉の広場近くの割烹にいた板前らしかった。
 おれはやっと刺身庖丁を引き抜いた。何人もの血を吸い込んでいるような気がした。
 ――店の奥の暗がりで、同時に、女の泣き出すような悲鳴がした。
 おれは驚いて店の奥を見た。若い女が毛皮にくるまって震えていた。おれはやっと事情をのみ込んだ。おれを暴漢と思い込んで、庖丁に怯えているのだった。
 やっと観察する余裕ができた。痩せた女だった。それも一目で栄養失調とわかる。眼だけが異様に大きく飛び出していた。おれは庖丁でハムを厚く切り取り、女の前に差し出した。カウボーイが言葉の通じないインディアン娘にする仕種じみていた。女は毛皮の中から両手を出してそれを取った。警戒心はもう失せたようだった。むさぼり食った。何度もおれは肉塊を切り取ってやった。
 女の上半身は裸だ。ギスギスした体つきで、皮膚は荒れていた。細い指に指輪を何個も付けているのが気味悪かった。親指以外のすべてに指輪が光っている。よく見ると女のくるまっている毛皮は恐ろしく高級なものだった。ブルーフォックスのコートを敷物代りにし、パステルミンクのコートを胸のあたりまで引き上げている。床の周辺には引き裂かれた衣類と血が染みた下着が散乱していた。ここで何が行われたのかは容易に想像がついた。
 女はちらっとおれの表情を見て、咀嚼を一瞬やめた。
「ごめんね。さっき四人来たやつらの仲間かと思ったんよ」
 かすれた声を出した。
「狐みたいな男はいたか」
「いたわよ」
 女はいった。
「最初のやつやわ」
 一キロ近くの肉を食べたのではないかとおれは思った。女は食べ終ると、当然のように身の上の話をした。毛皮や宝石が好きやからこの店に勤めてたんよ、皆逃げたけど、毛皮着てみたかったし、火事か水浸しになるんやったら持って行こう思て、結局、店に閉じ込められてしもたんよ……。
 ひとしきりしゃべった後、女はおれの顔を見て、「あんたも、かまへんのよ」といった。――これも実験なのだろうか。おれの行動の様式は、性的ライバルとの闘争に勝ったことになるのだろうか――そんな思考が頭をかすめた。
 おれは痩せた女の肩に手を回し、ブルーフォックスの毛皮の上に押し倒した。

 春になっても女は毛皮を手放したがらなかった。ひどいつわりで苦しみ、吐いた食物でいくら汚れても、毛皮にくるまって寝た。おれは曾根崎から逃げるように、北へ移動した。狐に似た板前が刺身庖丁を振りかざして追ってくる悪夢に苛まれながら、何度も寝ぐらを変え、最終的には地下街の北端に住みついた。三番街から地下通路をさらに北に抜け、小さい人工滝の裏側のレストランに、小動物が隠れ棲むように居ついた。女は長年住みなれた長屋にいるかのように、レストランの隅に汚れた毛皮を敷き、ほとんど動くことがなくなった。
 食料は、三番街〈トレビの広場〉に行けば手に入った。
 中央の螺旋階段が北の食料搬入点になっていて、下には阪急デパートの食品売場から移動してきた集団がテリトリーを印づけているのだが、食料を貰って立ち去る分には、攻撃されることはなかった。
 夏になって、女の腹は異様に膨らんだ。体が衰弱し痩せているだけに、腹部だけが目立った。
 女は空腹を訴える以外には口をきかなくなって、汗で汚れた毛皮の上で寝返りをうつくらいしか動くことはなかった。地下街の夏は短く、空調の停止する夜間も汗をかかなくなり、多分地上は秋なのだろうと想像しはじめた頃、女はうわごとのような意味のない声をあげた。おれは最初、寝言かと思った。が、皺だらけの顔に苦悶の表情を浮かべていた。分娩が始まっていたのだ。お産の前に死ぬだろうとおれは予想していた。だが、膨らんだ腹は異様な動きを見せ、血まみれの間から胎児は出てきた。おれは、その胎児が自分で這い出してきたような印象を受けた。
 事実、そうだったのかもしれない。
 おれはその子供の顔は狐に似ているだろうと予測していたが、そうではなかった。
 おれにも似ていなかった。それは幼児の体つきではなく、異常に頭が大きく、頭髪がまったくなく、五ヵ月目くらいの胎児がそのまま大きくなったような体つきだったからだ。性は何とか判別できた。男のように思えた。
 その子を抱え上げ、女の顔の前に差し出した。女はかすかに瞳孔を拡げたようだった。表情はほとんど変化しなかった。こんなものが腹の中にいたのかと気味悪がっているように思えた。女は目を閉じて、そのまま意識を失った。
 弛緩出血で子宮から血を流しつづけ、二日後に死んだ。

梅田地下街略図

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